もうすぐ期末テストなんですが、まったく勉強しないうちの子。
しょうがないから、オカンの私がテスト範囲である「フランス革命」をの重要な出来事を、時系列でまとめてみました。
テストに出る可能性が高いキーワードは青い文字と、アンダーラインのところ。青い文字のリンク先はWikipedia(一部他サイトも)になっているので、よりくわしい解説はそちらを確認してほしい。
「フランス革命」と言えば昭和世代のワタシらは、マンガ「ベルサイユのばら」と、それを元にした宝塚の舞台でどっぷりハマったもの。
当時、宝塚の舞台は、何度もNHKでテレビ中継されていた。
「オスカルさまぁ~!バスティーユに白旗があ~っっっ!!」
そこに流れるラ・マルセイエーズ。
遠くを見つめて、
「ついにおちたか・・・フランス・・・バンザイ・・・」
ロザリーの腕の中で、つぶやくオスカル様。
今でも思い出すだけで泣ける。
ただ、今になって思うのは「この時代のフランスに『バンザイ』ってあったの?」・・・
どうしても世界史に興味が持てないという方は、コミックの世界観から入るというのもひとつの手。

ベルサイユのばら(1) (フェアベルコミックス)
これを読むと「三部会」とか「国民議会」とか、キーワードが出てくる。
175年ぶりに開催された僧侶、貴族、平民による三部会。対立が続く中、1789年6月17日、平民に一部の貴族・僧侶が合流し、自らを「国民議会」と呼ぶことが決定しました。オスカルも会議場の警護を担当。革命に向けてさらに大きく歴史が動きはじめた日です。 #ベルばら展 #ベルばらは永遠に pic.twitter.com/QF5kFtbXAi
— ベルサイユのばら展 (@verbaraten) June 16, 2022
子どもの頃に読んだ時は、政治的な部分はさっぱり理解できなかった。
ただ、フランスの王と王妃が処刑され、オスカル様が・・・という程度の理解だった。
「フランス革命」とは?
フランス革命とは、絶対王政下のフランスで、市民が自由と平等を求めて起こした革命。王政が廃止され、共和制へと移行。
まず、1775年から1783年にアメリカ独立戦争が起こる。
フランスはこれに、多額の資金を投入したことで、既に大きく傾きかけていたフランスの財政を破綻(はたん)させた。
さらに、啓蒙思想の影響を受けたアメリカの独立宣言や市民革命の自由・平等・民主主義といった理念が、フランスの人々の自由や平等を求める運動に影響を与え、革命へと進んで行った。
フランス革命前夜 アンシャン=レジームとは?
アンシャン=レジームとは「古体制」「旧制度」という意味。
革命前のフランスでは、特権身分である 第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が、国土の約4割を占有し、第三身分(農民や市民)が租税を負担していた。
・第一身分と第二身分は税金がいらない(免税)
・第一身分と第二身分は人口の2%しかいない
・第三身分はさらに「富裕層」「中産階級」「下層階級」に別れた
・人口の90%を占める小作人や市民労働者は第三身分の中でも「下層階級」に属した。
フランス革命前 テュルゴーやネッケルの財政改革
国王はルイ16世。その妻はマリー・アントワネットの時代。
テュルゴーやネッケルという人物が財政改革を試みる。
テュルゴーの「穀物取引の自由化・ギルドの廃止」は失敗。
ネッケルは特権身分から税金を集めることを提案するが、特権身分から猛反発を受ける。
フランス革命前 175年ぶりの「三部会」再開
そこでルイ13世の時代(1615年)に止められていた「三部会」を約175年ぶりに1789年5月5日に再開することになる。
「三部会」とは第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)・第三身分(市民)それぞれの代表者が集まって話し合う議会。
「三部会」で特権身分である聖職者と貴族への課税を審議。
投票は各身分ごとに行われる「身分別議決法」という方法だったため、不公平だと怒った第三身分と、第一身分・第二身分とが激しく対立。
『第三身分とは何か』の著者であるシェイエスの呼びかけで、第三身分議員は独自の行動を取ると宣言。1789年6月17日、三部会を離脱し「国民議会」を結成。
独自に審議を進める国民議会に進歩的な僧侶や貴族らも次第に合流し始めた。
これに脅威を感じた王弟アルトワ伯爵ら強硬派が国王を促し、国王ルイ16世は国民議会の活動を封じるために議場を閉鎖した。
フランス革命前「球戯場の誓い」
1789年6月20日、議場から閉め出された国民議会の議員たちは、ヴェルサイユ宮殿の球戯場(ジュ・ド・ポーム)に集まり、
「俺達は、憲法をつくるまで何があっても解散しない」
と誓う。
これが『球戯場の誓い(テニスコートの誓い)』。
始まるフランス革命「バスティーユ襲撃と人権宣言」
1789年7月14日、国民議会の一部のメンバーを含む市民が『バスティーユ牢獄襲撃』を起こす。
これがフランス革命の始まりとされる。
目的はあくまでも自衛のために必要な弾薬を手に入れることだった。
今年もこの日がやってきました。
— ベルサイユのばら展 (@verbaraten) July 14, 2024
1789年7月14日、オスカルは天に召されます。
自らの信念を貫いたその生き方は、いつも私たちの中にある勇気と誇りを鼓舞してくれるのです。
ベルばらは永遠に…!#ベルばら展 #神戸展 pic.twitter.com/Nx9NwtgEPf
このバスティーユ襲撃を知った全国の農民がちが、襲撃を拡大解釈して反乱を起こす。
慌てた国民議会は、農民をなだめて平和と調和を促すため、1789年8月4日十分の一税などの「封建的特権の廃止」を可決。民衆を沈静化し、礼節ある態度を奨励するという考えのもとで宣言された。
さらに、革命の方向性を決めるために、貴族のラ・ファイエットによる『人権宣言(人間と市民の権利の宣言)』が1789年8月26日、国民議会によって採択。
進むフランス革命「ベルサイユ行進」
前年の凶作や政情不安のため、パンをはじめとする食料品の価格が高騰。
1789年10月5日、女性を中心としたパリ市民が「パンをよこせ」などと叫びながらヴェルサイユ宮殿まで行進する『ベルサイユ行進』が発生。
民衆は暴徒と化して宮殿に雪崩れ込んで略奪を行った。
国王一家は民衆によってヴェルサイユからパリへ連行。
それ以降はパリのテュイルリー宮殿に住むこととなった。
進むフランス革命「ミラボーの死去とヴァレンヌ逃亡事件」
国民議会の中心的人物であり、国王と国民議会との裏取引役でもあったミラボーが、突如として42歳で病死。
ミラボーの死去により不安になった国王とマリー・アントワネットは、1791年6月20日夜「ヴァレンヌ逃亡事件」を起こす。
マリー・アントワネットの故郷であるオーストラリアに一家で逃亡しようと馬車でパリを脱出、東部国境に近いヴァレンヌで発見されパリへと戻されたのだ。
これを知ったオーストリアは、1791年8月27日フランスの王を守ろうとピルニッツ宣言を発表。
オーストリアとの関係が悪化することを懸念した国民議会は、急いで1791年9月3日に「1791年憲法」を制定した。
1791年憲法により、フランスは立憲君主制に移行。「王権は神によって与えられたものである」という「王権神授説」は放棄され、国王は「国民の代表者」として歳費を貰う一官吏として規定された。
国民議会は憲法制定後、1791年9月30日に解散。
1791年10月1日、立法議会が開かれる。
ついにフランス革命「立法議会」
「立法議会」では、立憲君主派の「フイヤン派」と、穏健的共和政派の「ジロンド派」が対立。
やがて国王を不要だと考える共和政を主張する「ジロンド派」が主導権を握る。
オーストリアによる「フランスの王を守ろう」とするピルニッツ宣言を覆そうと、ジロンド派内閣は1792年4月20日オーストリアに宣戦布告。
「フランス革命戦争」が始まる。
フランス各地から義勇軍がパリに集結、戦いに参加していったが、フランスは劣勢であった。
フランス革命「8月10日事件」と「男性普通選挙」
1792年8月10日、義勇軍がパリに集まる中、バスティーユ襲撃で革命に目覚めた革命的民主主義者たち(「サン・キュロット」と呼ばれる人々)が、国王一家が滞在した、パリのど真ん中にあるテュイルリー宮殿を襲撃。
国王一家を捕らえ、タンプル塔(元は修道院の監獄)に幽閉した。(「8月10日事件」)
立法議会は王権の停止を宣言。
それまでの選挙は財産による制限選挙だったが、議会で全ての男性が参加できる男性普通選挙が決定され議会は即時解散。
フランス革命「ヴァルミーの戦い」に勝利
一方そのころ、オーストリア帝国とプロイセンは、1791年の「ピルニッツ宣言」に基づき、革命がフランス国外へ波及することを阻止するために軍事介入を開始していた。
1792年7月にはオーストリア軍がフランスに侵攻。続いてプロイセン軍もフランスに侵入。
8月23日にはロンウィが陥落。9月2日にはヴェルダンが降伏し、この事態にパリは動揺していた。
しかし、男性普通選挙が決定して士気の上ったフランス義勇軍は、1792年9月20日フランス北東部アルゴンヌの丘のヴァルミーで、プロイセン軍に勝利した(ヴァルミーの戦い)
フランス革命「初の男性普通選挙の開催」
フランス史上始めての男性普通選挙が行われた。
これは世界的に観ても、最初の男性普通選挙である。
これまでの立法議会は、富裕層の第三身分しか参加できなかったが、財産による制限選挙が廃止されたことで、全ての男性が選挙に参加できるようになった。
これによって一院制の立法府、「国民公会」が1792年9月20日発足。
貧しい市民や農民の利害を代表する「ジャコバン派(急進共和派)」が登場。
フランス革命「ルイ16世の処刑」と「山岳派」の台頭
ついに1793年1月21日、国王ルイ16世を処刑。
フランス史上最初の、王のいない時代「第一共和政」となる。
フランス革命を脅威と感じたヨーロッパ諸国は、1793年2月13日、同盟を組んでフランスの革命政権を打倒することを目指し「第一回対仏大同盟」を結成。
イギリスの首相ピットが提唱し、オーストリア、プロイセンなどが参加した。
国民公会は徴兵制を実施(30万人募兵令)。
いくつか不平等な条項があり、これに反発した農民は1793年3月10日、「ヴァンデの反乱」と呼ばれる農民蜂起・内戦を起こす。
その合い間に、「ジャコバン派(急進共和派)」の中でも、最も急進的な党派「山岳派」が急速に台頭してくる。
議会で最も高い位置の議席に座ったことから「山岳派」と呼ばれ、中心人物の指導者はロベスピエール。
フランス革命「山岳派による恐怖政治」
ロベスピエール率いる山岳派による恐怖政治の時代が始まった。
国民に恐怖を引き起こさせるような断頭台で大量処刑を行うという政治手法を採り、反対派を次々と断頭台送りにした。
1793年6月24日、ジャコバン派の主導による「1793年憲法(ジャコバン憲法)」が採択された。
しかしこの憲法は、内外の危機ゆえに平和の到来まで施行が延期され、ついに施行されなかった。
フランス革命「ロベスピエールの逮捕と処刑」
1794年7月27日、ロベスピエール率いる山岳派の独裁に対立する勢力によるクーデター「テルミドール9日のクーデタ」が起こる。
ロベスピエールとその同志は失脚し、処刑者や自殺者が出た。
ロベスピエールは逮捕され処刑された。
テルミドールとは、革命時制定されたフランス革命暦で「熱月」の意味。この事件により実質的に一連のフランス革命は終焉したとされる。
このあとも政治の混乱は続くが、ナポレオン・ボナパルトの登場でフランスの混乱は一旦落ち着く。
革命暦は後にナポレオン・ボナパルトにより廃止された。
フランス革命の年表
上記の出来事を年表にまとめると、以下のようになる。
の部分は議会の名称(呼び名が変わってゆくので注意)。
1775年から1783年にアメリカ独立戦争
1789年1月 シェイエス「第三身分とは何か」初版刊行
1789年5月5日 三部会の再開
1789年6月17日 国民議会 結成
1789年6月20日 球戯場の誓い(テニスコートの誓い)
1789年7月14日 バスティーユ牢獄襲撃
1789年8月 4日 封建的特権の廃止を決議
1789年8月26日 人権宣言を採択
1789年10月5~6日 ベルサイユ行進
1791年 4月 2日 ミラボーの死去
1791年6月20日 ヴァレンヌ逃亡事件
1791年8月27日 ピルニッツ宣言
1791年9月3日 1791年憲法の制定
1791年9月30日 国民議会が解散
1791年10月1日 立法議会の召集
1792年4月20日 オーストリアに宣戦布告
1792年8月10日 8月10日事件・王権停止・普通選挙の実施約束
1792年9月20日 ヴァルミーの戦い・国民公会の召集
1793年1月21日 ルイ16世を処刑
1793年2月13日 第一次対仏大同盟結成
1793年3月10日 ヴァンデの反乱
1793年6月24日 1793年憲法の採択
1794年7月27日 テルミドール9日のクーデター
▼さらに詳しい年表はこちら
Wikipedia「フランス革命の年表」
▼参考にした動画
映像授業 Try IT(トライイット)【世界史】 フランス革命
▼こちらも参考に
世界史の窓「フランス革命」
▼Amazonの関連本ベストセラーはこちら

フランス革命 歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)
今にしてわかったことだけど、名作「ベルサイユのばら」に描かれたフランス革命の大半は、オーストリアにいたマリー・アントワネットがフランス王家に輿入れするところから、「バスティーユ牢獄襲撃」までだった。
作者の池田理代子さんが何かのインタビューで、オスカルが主人公ではないと語っていた記憶がある。「ベルサイユのばら」は、オスカルと、マリー・アントワネットと、フェルゼンという立場の違う3人の物語で、3人が主人公なのだ。
ちなみに、オスカルは実在しないけど。
確か、コミックではバスティーユ牢獄でオスカルが死去。ここで最終回かと思いきや、まだコミック1巻分のヴァレンヌ逃亡事件やルイ16世、マリー・アントワネットの「その先の物語」があった。
子どもの頃は「なぜ、まだ話が続くのだろう」と思ったけど、フランス革命を描くなら少なくともルイ16世とマリー・アントワネットの最後までは描く必要があったんだと理解。