映画『国宝』を観た。
「3時間、大丈夫かな」
という懸念は吹っ飛ぶほど、あっという間に終わった。
それはそうと、国際的にこの映画を披露するとしたら、「女形」という日本固有の概念て、ちゃんと伝わるのだろうか・・・と思った。
映画『国宝』のデメリット?
三島由紀夫だったか・・・・女形はある意味「女以上に女性的」と書いていたような。
また、最近読んだ本「江戸文化から見る 男娼と男色の歴史」によると、昔(江戸時代)は芝居の女形=男娼であり、男性だけでなく女性も「陰間茶屋」と呼ばれる店で「男娼=陰間」を買っていたと。
もちろん現代の歌舞伎の「女形」は役者であり踊り手であるだけで、セクシャリティとは切り離して考えられるものです。
肌感覚で、日本国内ではそのあたりの微妙なニュアンスが理解されているが、国際的な映画祭や賞レースで、この「女形の微妙なニュアンス」て、理解されるのかな?
私は最初「覇王別姫」みたいな、喜久雄(吉沢亮)と俊介(横浜流星)のどちらかは同性愛者で、相手に恋愛感情があるのかと思ったけど、そういう話ではなかった。というか、そうだったら「覇王別姫」のパクリになっちゃうだろうし・・・。
いずれにしろ、男が女の化粧をして、女装して踊ることの芸術性とか、存在意義が、世界に通じるのだろうかという懸念がある。
「日本人だけがわかっていればいいのさ」
という枠を超えて、世界的な拡大をするとなると、ちょっと大丈夫?て不安になる。
というのも数年前だか、BTSですら「世界で最もハンサムな顔100人」に選ばれた時にギリシャでは「男が化粧をしている」「気持ち悪い」て言われましたからね。
男が化粧して、女性の着物着て、踊って、それが「国の宝だ」という日本文化が、どこまで世界に通用するでしょうか。
BTS気持ち悪いと言ったギリシャの人みたいな、暴言や間違った解釈を聞きたくない。お願いだからこういう文化なんだってことを、ちゃんと勉強して理解してほしいと思うけど、おそらく映画「国宝」が世界的に拡散すればするほど、勘違いや誤解、勉強不足による間違った解釈が生まれそうで怖いです。
あと、横浜流星、吉沢亮が最初、見分けつかないのは私の目がアレなんでしょうけど・・・懸念材料でもある。素の顔でも見分けがつきにくいが、女形の白塗りになるとさらに見分けられない。
3時間観ている間にだんだん、見分けられるようになってくるのだが、最初からはっきり見分けたかった。だから、2度、3度と観たくなるんだろう。2度目に観たら(まだ1度しか観てないけど)きっと最初からハッキリ、喜久雄と俊介の見分けがつくと思うの。何か大きなホクロとか、ひと目でわかる特徴的な違いが欲しかった。
映画『国宝』のメリット
私のような「歌舞伎を観たい」と思いつつ、観れないままこんにちに至るような者にとっては、歌舞伎とは何か、歌舞伎界で生きるとは何かを知ることができる。
劇中の「藤娘」や「二人道成寺」や「曽根崎心中」は、映画を観終わったら、
「今度は本物の歌舞伎界で観たい!」
という気にさせてくれる。
そして「眼福」「目の保養」、とにかく日本舞踊を観てこれほど「もっと観たい!」という気持ちになったことは初めて。
だから、帰宅してからYouTubeで本物の歌舞伎役者の踊りやなんかを観まくって、止まらなくなった(笑)。
最終的に「眼福すさまじい」と題された六代目尾上菊之助くんのこの踊りがもう、素人でもわかるほどの驚愕のクオリティ。
映画「国宝」からは外れている・・・・と思いきや、六代目尾上菊之助の叔母は、「国宝」で半二郎の妻役の寺島しのぶだし、Amazonオーディブルで「国宝」を朗読しているのは8代目の尾上菊五郎(菊之助の父)だから、そこで連動しているんですよね。
映画を観る前に何かの映画評でも、
「この映画に寺島しのぶが出ていることが、リアルな歌舞伎界と映画をつないでいる」
と紹介されていた。
寺島しのぶさん本人はインタビューで、映画を観た息子さんから「てかさ、お母さんの役、まんまやん!」と言われたそう。
それを念頭に置いて観たので、寺島しのぶの部分は半分ドキュメンタリーに見えた。
映画『国宝』の感想
とにかく私は宮尾登美子が大好き。
宮尾登美子といえば「芸道もの」と言われるジャンルに定評があった作家。
昭和の時代から宮尾登美子の「芸道もの」ジャンルの小説を読み漁り、映画化された作品を観続けてきた私としては、「100年に一本の壮大な芸道映画」と自ら名乗る映画「国宝」を観ないわけにはいかなかった。
が、先に言ってしまえば、宮尾登美子を超えたとは思えない。
「国宝」の中の「芸道」を現している場面は、子供時代の舞の稽古くらい。
渡辺謙演じる半二郎に棒で叩かれたり、罵られたり、体罰を与えられたり。
そのあとに画かれるのは、人間模様ばかりで、「芸の道」を極めているか、いないかは二の次。そこは残念だった。
たとえ踊りが上達して、客が集まるようになったとしても、真の「芸道もの」なら、そこからが本番。
さらなる芸の上達、芸の高みを目指して研鑽を積む場面がほしかった(原作にはあるらしい)。
迷走している主人公の浮き沈みは、ドラマ的には面白いけど、芸道としてはどうなのか。
真の芸道なら、たとえ落ちぶれても、復帰の道が絶たれても、日々研鑽を積むのでは、と思われる。
真の「芸道もの」というのは、人間関係や生き方に悩むのではなく、「芸」に悩む。
家族関係や友情、男女関係なんかそっちのけで、
「どうしても自分の『芸』が、上達しない」
ことに悩む主人公と、それに振り回される周りの人を画くのが「芸道もの」「芸道映画」。
高村光太郎は、彫刻家の父を超えるために、自分の彫刻家としての研鑽に日々と金銭を費やして妻をそっちのけにしていた結果として、妻・智恵子は統合失調症を発症してしまった。
ピカソはインスピレーションを得るために、妻がいながら何人もの女性を愛人にしてきた。
これらは一例で、まず芸術ありきで、その後ろで妻や愛人が泣いていてもおかまいなし(・・・て言ったら言い過ぎか?)。最終的に「作品」がすばらしいものになれば、お許しあれ・・・・的な話が「芸道もの」だと私は思う。
その点では「国宝」は甘いというか、優しいというか。
喜久雄を諦めた春江も、それなりに幸せを手に入れている。
高村光太郎と智恵子のような、どちらかが死んでしまうような不幸な感じではない。
亡くなる人もいるんだが、夢破れて亡くなったというより、なんだろうなあ・・・最初から諦めていた「諦観」というのか、総領の甚六というか。
とはいえ、喜久雄と俊介の踊りの場面、芝居の場面(曽根崎心中)などは、劇中劇としても楽しめるし、映画としての見どころもある。
とくに後半の曽根崎心中。俊介が差し出した足がひと目見て「不健康な状態」の場面など、その後も予測しながら、胸騒ぎ、やっぱりそうか、まさかそうなるとは、というストーリー展開は思っていたようなものと違って、意外な結末だった。
「血」か、「芸」か、の結論としては、この物語では「芸」が勝るということだった。
しかし当然、現実では「血と芸」の両方に恵まれている事もあるわけで、とりわけ上記の「六代目尾上菊之助」なんか観てしまうと、そもそもそんなことを比較するものでもないかなと思う。
それにしても吉沢亮も横浜流星も、よくあそこまで踊りの稽古をしたものだと。
ホリエモンが「寿司職人が何年も修行するのはバカ」とか言って物議を醸したことがあったけど、「国宝」を観ると、踊りの稽古もそうなのか?と言いたくなる。
映画の中では「血か芸か」みたいな部分があったけど、この映画自体が「何年も修行するのか、集中して短期でやるのか」の「答え」みたいにもなっていた。
もちろん、しつこいけど六代目尾上菊之助のYouTubeを見たら、やっぱり幼少期から何年も修行してきた本物に勝るものはない、とわかった。
映画を観ただけなら「よく練習したわねえ、すごいわねえ」で終わった。
本物の歌舞伎役者を観ると、「やっぱり本物はすごいわねえ」に変わる。
つまり最終的には、本物を観るしかない、と。
余談だが、吉沢亮は大河ドラマ「青天を衝け」を観て大好きになった。
それでがんばって「キングダム」とか「東京リベンジャーズ」とか、彼の出ている映画を観ようと試みたのだが、どうしてもジェネレーションギャップを感じ、入り込めない。月9の医療ドラマも観たけど、タイトルすらもう思い出せないし、すぐ脱落した。
「国宝」を観てようやく、吉沢亮をまた好きになることができた。
あの端正な「正統派ハンサム」なルックス、昭和生まれにはなぜか懐かしくもある顔立ちだ。
まるで加山雄三や石原裕次郎みたいな、往年の映画スターを彷彿とさせる。
映画館(イオンシネマだった)でビックリしたんだけど、吉沢亮は同時期にもう一本、コミカルなバンパイアの映画も公開されているのね。
どうらや例の無断侵入騒動で、公開延期されて「国宝」と時期がバッティングしてしまったらしい。
でもおそらくそっちは私には合わないだろうから、配信されたら観たいかな。
・・・と思っていたら、速攻Amazonで配信が始まった。
👉️ Amazonビデオ『ババンババンバンバンパイア』
街を歩けば、インバウンドの増加で「ここはどこだ?」という気持ちになる。
映画「国宝」は日本の良さを改めて思い出せ、ここは日本なんだと気づかせてくれる。
「日本人ファースト」という言葉は排他的で嫌い。
そんな言葉を使わなくても、日本の「良さ」日本の「すごさ」日本の「楽しさ」日本の伝統の「美しさ」を知れば、自然と日本人への尊敬を感じる。
映画「国宝」は、人々が忘れかけていた「この国の良さ」を、必死で支えている人たちの物語でもある。
