読書感想文|林真理子「綴る女 評伝・宮尾登美子」

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 1984年秋、その街は華やいでいた。

 あの、有名な女優が、東京から遠く離れたその街にやって来たのだから。

 理由は映画のロケや、旅行ではない。

 その街出身の男性と結婚したことで、夫の実家のあるその街に、夫ともども結婚の報告に訪れたのである。

 今となっては知る由もないが、おそらくその前にも何度か、お忍びで女優が街を訪れていた可能性はある。しかし、そのころは、その男性との交際は秘められたものだったはずだ。

 二人はようやくおおやけに結婚を発表し、初めて、女優は表立って街を訪れたのだ。

 街の多くの人がそのことを喜び、女優をひと目見たいと胸踊らせ、あそこにいる、あそこで見たという話が街中に飛び交っていた。

 わずか一年後に、その女優が急逝し、その街の墓所で永遠の眠りにつくとは、その時、誰が思おうか。誰一人として、そんな悲劇が待ち受けていようとは、微塵も思わなかった。

目次

女優が街にやって来た

 私は、1984年のその秋、その街の高校に通っている地味でさえない女子高生だった。

「あの、女優が、街に来ているらしい」
 という噂を耳にしてから数日後、クラスメイトのAさんが、朝、登校してくるなり興奮した様子で叫んだ。
「会った!会った!あたし!!ついに、夏目雅子に会ったんちゃ!」
 普段から人気者でクラスの中心人物だったAさんの周りには、一瞬にしてワッとクラスメイトが集まった。
 
 私も人垣の外側から、つま先立ちで、Aさんの話を聞いた。

「昨日の夕方、うちのお母さんがさ、近所の人に聞いた言うて、夏目雅子、サインもらえるらしいよて言いよったからさ、えー、あたしも欲しいって言うたら、なら、行ってくりゃええじゃん、裏のNさんかた行けば、サインしてくれるらしいよちゅうから、色紙持って行ったんちゃ。あの・・・裏のAですけど・・こんにちは・・て玄関開けたら、まさか、まさかよ、本人よ、本人が出てきたんちゃあ。Nさん家(ち)の人じゃのうて。それでびっくりして、あ、あ、あの、サインを・・・て言うたら、にっこりわらって、じゃあ後でお届けしますね、どちらの方、裏のAさんですね、はいわかりました、そこに色紙、置いておいてね、て言われて、指さされた玄関の脇を見たら、色紙がこんなに大量に置いてあって・・・」
 とAさんは、両手をたてに広げて、いかに大量の色紙があったのかを周りに伝えた。

「どうだった?本物の夏目雅子は」
 誰かが声を上げた。

「もううう、めっちゃキレイ。あんなキレイな人見たことがない。あと、もう、あたしが緊張してあわわてなっちょるのに、優しくて、本当、いい人なんちゃ。あんな大量の色紙、あれに全部サインするとか、あたしだったら不機嫌になるのに、嫌な顔ひとつせんと、そこに置いておいてねて、笑顔でさあ、すごいよ、ほんとこんなにあったんじゃけぇ」
 と、Aさんは繰り返し、色紙がどれだけ積み上げられていたかをジェスチャーでクラスメイトに伝える。

 そうか・・・夏目雅子、私もどこかで会えないかな。下校の時、駅や電車で偶然出会ったら、いいのになあ・・・と思ったその日の午後だった。毎週土曜の午後に地元のテレビ局が放送している「映画名作劇場」を見ようとテレビをつけたら、
「祝・夏目雅子さん来山記念」とテロップが出たあとに、夏目雅子の代表作と言ってもいい、あの「なめたらいかんぜよ」のセリフで有名な映画「鬼龍院花子の生涯」が始まった。

 それまでの夏目雅子といえば、ドラマ「西遊記」の三蔵法師や、「野々村病院物語」の看護婦さんなど、優しいイメージだった。

 だから「なめたらいかんぜよ」の夏目雅子には衝撃を受けたが、それ以上に、私が心を鷲掴みにされたのは、夏目雅子が演じた松恵という女性が、他人とは思えないことだった。

 実は、わけあって、当時私と弟は、親戚の家族と暮らしていた。その家にも、娘や息子がいたから、私と弟は肩身の狭い生活を余儀なくされており、経済的な面でも、進学したいなどはとても言えない身の上だった。

 「鬼龍院花子の生涯」は、とかく夏目雅子の「なめたらいかんぜよ」のセリフが取り沙汰されるけど、ある任侠の一家にもらわれてきた女性が、逆境に逆らって前向きに生きた物語である。

 子沢山の家庭から、子供のいない任侠道の親分「鬼龍院政五郎」の子供となるべくもらわれてくる松恵。しかし、やがて鬼龍院親分には「花子」という実子が生まれ、養女として育てられるはずだった松恵は、名ばかりの姉となって、花子の子守や下働きに駆り出され、女学校に行きたいという望みは、鬼龍院親分の「女に学問などいらん!」の大喝のもと、退けられる。

 映画の中で松恵が「女学校に行かいとうせ、行かいとうせ(行かせてください)」と政五郎に繰り返し頭を下げる場面で、私は号泣していた。
 子役時代の松恵を演じていたのは、仙道敦子。その場面がフェードアウトして、数年後に尋常小学校の代用教員となった松恵に場面が変わると、そこからは成長した松恵を夏目雅子が演じていて、大団円の「なめたらいかんぜよ」へと物語はつながる。

宮尾登美子「鬼龍院花子の生涯」との出会い

 このように、私と「鬼龍院花子の生涯」との出会いは衝撃的だった。

 何重にも、不思議な縁が重なった、この出会い。

 今、およそ35年前のあの時を思い出しても、奇妙でもあり、運命的でもあり、必然的でもある。

 夏目雅子さんが、伊集院さんとご結婚されなかったら、そもそも山口にも来ていない。
 街に、夏目雅子さんが来なければ「鬼龍院花子の生涯」はテレビで放送されなかっただろう。
 あるいは、私が山口以外の場所に住んでいれば、あの映画を目にしてはいない。あれは地元の「テレビ山口」で「夏目雅子さん来山記念」と題して放送された番組だ。わけあって親戚の家に引き取られる時に、名古屋の親戚や広島、大阪の親戚の家も候補に上がっていた。そのどこかに住んでいれば、テレビ山口の放送は見ていない。

 私は自分を完全に主人公の松恵に重ねたことから、映画「鬼龍院花子の生涯」に衝撃を受け、やがてその映画の原作が宮尾登美子という人の小説だと知る。

 早速、書店へ行って「鬼龍院花子の生涯」の文庫本は見つけたが、大人っぽい内容の映画を思い出すと、本を買う勇気が出ない。
 任侠世界の男たちの切った張ったや、女同士の寝屋での争い事や、ヌードや、男女のからみが渦巻く映画の内容と、女子高生という自分を照らし合わせ、文庫本をレジに持っていくのに躊躇してしまい、買うのをためらって書店を出たこと数回。

 しかし、ある時、勇気をふりしぼって文庫本をつかむと、レジに向かった。

 なんのことはない、読んでみたら原作は、映画に流れていた「任侠色」とはかなりかけ離れた、運命に逆らって生きた女性の物語だった。

 後年、映画「鬼龍院花子の生涯」を何度も繰り返し観る機会があり、冒頭シーンで「この物語は宮尾登美子の原作を元にフィクショナルに創られたものであり・・・」と表示されることの意味を知る。かなり、原作とは違うテイストに「創られた」ものなのである。

 宮尾登美子自身もエッセイなどで繰り返し、作品は自分の手を離れたら、あとは監督さんや脚本家におまかせするという風なことを言っている。

 小説「鬼龍院花子の生涯」に「なめたらいかんぜよ」の場面はない。ただひたむきに、前向きに生きた松恵の物語だった。

 小説を読んで、さらに私が驚いたことがある。それは主人公の松恵が「看板屋の娘」だったことだ。

 改めて映画を観ると(今は有料配信の動画配信サービスで、いつでも見られる)、冒頭の松恵が鬼龍院政五郎に見初められて、もらわれて行く場面で、親が看板屋を営んでいることがわかる。父の着物袖口には、ペンキがついているし、家のガラス戸には赤字で「カンバン・・・」と書いてある。

 松恵は、看板屋の娘・・・私と同じ・・・。

 高校生の時、すでに看板屋だった私の父は他界していた。それもあって、私は他家での暮らしを余儀なくされていたのだが、私はますます、「鬼龍院政五郎」の松恵に自分を重ね、宮尾登美子の世界にのめり込んでいった。


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宮尾登美子の世界展の祝辞

 「鬼龍院花子の生涯」を読んで、すっかり宮尾登美子の小説に魅了された私は、それ以降、人生の指針として、またある時は矜持として、そしてまた目標として、宮尾登美子の本を読み続けて来た。

 あれは、日本橋高島屋での「宮尾登美子の世界」展を見に行った時であるから2004年である。

 会場の壁に「この度はおめでとうございます・・・」の言葉から始まる、「祝辞」を林真理子さんが書かれているのを見て、「あっ」と思った。

 何が「あっ」なのか。

 まさか、先を越された、とでも思ったか。

 自分が書こうとでも思っていたのか。

 もちろん、いち読者でしかない私に、そんな栄光などあるはずもなく。

 宮尾登美子さんが亡くなり、今度はその伝評を林真理子さんが書いたとしても、もう驚かない。さもありなん、と思った。

「宮尾登美子さんのような芸道ものの小説を書きたい」
 と、林真理子さんが前々からエッセイなどで書かてていたのは知っていた。

 だが、「祝辞」を書かれた時に、そこまで親しい間柄だったのかと思って、私は勝手に、林真理子に嫉妬していたのだった。

 「綴る女」を読んだらさらに、何度も宮尾登美子さんとお食事した仲だったとわかって、なんだかよくわからないけど、一周回って「さすが林真理子」と思った。

 実は、私は、林真理子さんも大好きだから。

私が上京しておよそ35年。

 宮尾登美子と林真理子、その本を両輪として、こんにちまで前向きに生きてきた。

 その両者が、宮尾登美子さんの没後とはいえ、こういう形でひとつの作品となったことに感慨が深い。

 これはおそらく、最初の夏目雅子の来山の時から始まる、私のまったく個人的な歴史の上での、感慨である。

 なので、多くの人に、同じ感覚は匹敵しないであろう。

 あの、1984年の秋の、土曜の午後に「鬼龍院花子の生涯」を見て受けた衝撃。

 あそこから続く私の半生を、林真理子に締めくくってもらった。そんな気がする。もちろん、私の人生はまだ続く。まだ、2幕、3幕と、怒涛の展開が待っているはずである。

「綴る女」の残念な点

それにしても、宮尾先生、私達愛読者が一番知りたかった、「仁淀川」から先の物語は語らないまま、鬼籍に入られた。

これは、返す返すも残念なことである。

 「綴る女」の中で、その一番のミステリーが明かされるのかと思いきや、やはり、真実はもはや遠く昭和の彼方に消えてしまったようである。

 なぜ、宮尾登美子が離婚から再婚に至ったのか。

 再婚相手の宮尾氏とは、どんな人だったのか。

 その後、高知で多額の借金ができて、逃げるように上京したというのはなぜなのか。

 「櫂」「春燈」「朱夏」「仁淀川」に続く宮尾登美子の自伝的小説の第5弾が執筆されることはなかったけど、もし、書かれていたなら、最初の離婚と、再婚相手との出会い、多額の借金、上京、その後の作家としての成功が語られていたはずなのに。

 結局、宮尾先生は、その時代の秘密を墓場まで持って行ってしまわれた。

 まったくの赤の他人が調べれば、スキャンダラスなことも暴けたかもしれないが、生前交流があった林真理子さんが書いただけに、核心には触れないまま、
「浪費家だったから、散財してしまったんじゃないですか」
 と、当時を知る宮尾登美子の知人に語らせるレベルの話で落ち着いている。

 ご主人の宮尾氏に至っては、誰も見た人、会った人がいない、幻の存在のような書かれ方で笑ってしまった。

 どんなに親しい編集者や、関係者でも、宮尾登美子の二人目の夫に会ったことはないらしく、勤め先などはわかっているけど、その人物像はなぞのままなのであった。

 また、二人いるはずの実の娘の話や、孫の話、異母兄弟とはいえ、唯一の肉親である兄の話は一切出てこない。

 かつて、宮尾登美子さんがエッセイで、
「兄からは『お前は我が家の”恥”を世間に公表して、それで金を稼いでいる』と激怒され、絶縁されている」
 と明かされ、その他の親類縁者からも非難されて、身内からは皆、距離を置かれているのだと吐露されていた。

 それを思い出すと、本当に「孤高の作家」だったのだな、と思う。

 唯一の理解者と思える娘さんが、その後、宮尾登美子さんとどう関わっていたのかも不明で、「綴る女」を読み終わってネットで調べたら、晩年を看取ったのは娘さんだったと知って、ちょっとホッとした。

 さすがに、娘まで縁を切るような事はなかったのだ。

 身を削って、身を削って、まるで「夕鶴」の「つう」のように、自伝的小説を書き続けた宮尾登美子。

 その正体は明かされないまま、「つう」は飛び立って消えてしまったのだ・・・という気がした。

 それでも私は「鬼龍院花子の生涯」を読んで、看板屋の娘・松恵に自分を重ねたあの日を忘れない。

 宮尾先生が、自らを切り刻んで書いた物語を、私は今日も読み返して、生きる糧にさせてもらう。


綴る女-評伝・宮尾登美子


映画「鬼龍院花子の生涯」 

 

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