今にして思えば「丁半博打」みたいだった私の新学期に思うこと

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 ここ数日「私って、ADHDだったの?」という気持ちで、関連本を読んでいる。

 脚本家の大石静さんのエッセイに「わたしってブスだったの」てのがあって、週刊文春で連載されていた時に「すごいタトルだな」と思った。

 まさかそれから数十年後に、自分が「わたしってADHDだったの」と思うとは。

目次

学生の頃にいちばん辛かった新学期のクラス替え

 この時期になると(2月から3月の年度末)、子供の頃の辛い記憶がよみがえる。

 新学期がとにかく、憂鬱だった。

 特にクラス替え。私が通った公立の小学校は、2年に一度のクラス替えだったので、クラス替えのない新学期もあって、その時は多少、気が楽だった。

 クラス替えがあった年は、辛かった。なんとなく高学年なってくると、自分でもわかってきたのだが、新しいクラスメイトから自分が、
「変な人」
 と思われるか、
「面白い人」
 と思われるか。丁半博打みたいなドキドキ感があった。

 クラス替えで知り合った初対面の同世代に「面白い人」と思われたら、その後は安泰だ。実際、5年生の時のクラス替えではK子と知り合い、面白い人認定されて、卒業するまでの2年間が楽しかった。

 ところが中学1年の時は明らかに「変な人」と思われてしまい、地獄のような1年だった。

 さいわい、中学2年でまたK子と同じクラスになり、中学生活が激変したが、3年でクラスが別れてしまい、またしても学校生活は暗くなる。3年の時に行った修学旅行は、ほぼ記憶がなく、写真を見てもドン引きするほどの「暗い顔」のワタシが・・・・

 なぜある時は「面白い人」、ある時は「変な人」なのか。
 自分でもわからなかった。
 面白い人と思われようとする振る舞いが空回りして「変な人」認定されてしまうことの恐怖感。
 だったら何もせずに目立たないように静かにしていた結果の「変な人」認定。
 どうしていいかわからなくなって、置物みたいに固まってしまった末の「変な人」認定。

 不思議なことに、いじめにはあっていない。本当の「変な人」は、だれも近づいてこないのだ。

 休み時間になるとやることがなくて、机に突っ伏して「寝たふり」をしているか、教室を出てずっと、廊下を一人でさまよい歩いているかしかなかった。

 ずっとそうなら、ある種のあきらめもついただろう。

 だが奇妙なことに、ずっとそうではない。ずっと「変な人」ではないのだ。

 「あんた面白いね」と言ってくれたのは小学校1年生の時のEちゃんや、4年生の時のSちゃん、そして5年6年の時と中2の時のK子。こういう人がいると、私とその他の女子の橋渡し役になってくれる。逆に言うと、橋渡し役がいない時の私は「変な人」で孤独になる。

どうしてみんなできるのに、あなただけできないんですか?

「どうしてみんなできるのに、あなただけできないんですか?」
 幼稚園の時は、毎日そう言われた。

 これは親にも問題があったと思う。

 ある時、幼稚園でプールの授業があって、着替えを持ってくるように言われていた。
 私の通っていた幼稚園では、プールと言ってもビニールプールの水遊びで、水着に着替えたりはしなかった。皆が下着姿のまま園庭のビニールプールで遊んで、終わったら下着を着替える(昭和40年代の話です)。プールがある日は、タオルと着替えの下着を持っていくことになっていた。

 私はその日、着替えの下着を忘れていた。にもかかわらず、下着でずぶ濡れになって水遊びしていた。

 水遊びのあとで、先生に着替えがないことを伝えると、
「どうしてみんなできるのに、あなただけできないんですか?」
 と言われて、バツとして全裸で他の園児たちの前に立たされた。
 着替えを忘れた私も悪いが、問題は「着替えを持たせるのを忘れた親」の方だと思う。

 こんな調子だから、幼稚園では日常的に、先生からため息を吐かれて、冷たくされていた。

 確かに私にも問題があって、「お外遊びの時間」と言われたら教室にこもって本を読むし、「お外遊びは終わりです」と言われたら外に出て鉄棒にしがみついたりしていて、随分あまのじゃくで、反抗的な部分もあった。

「今度、敬老の日にみなさんのおじいいさん、おばああさんが参観に来ます。今日はそのおじいさん、おばああさんに見せるものをねんどで作りましょう」
 と言われて、私は30秒くらいで「できました」と言った。
「できた?もう?これは何ですか?」
 と問われた私は、
「山です」
 と答えた。ねんどを粘土板の上にただ、三角形にかためて置いただけだった。
「はー・・・」
 と、肩を落としてため息をついた先生が「もういいです」と言ったことを、半世紀以上経った今でも覚えている。

とりあえず知能テストの結果待ちだった私は・・・・

 あとにも、さきにも、自慢話なんてないが、私の唯一の自慢が「知能指数」なのだ。

 上記のような「変な人」確定の幼稚園児だった私。
 担当の先生は、当時としては珍しい男性幼稚園教諭だった。

 その人は園長先生の息子さんで、ゆくゆくは幼稚園の経営を引き継ぐために、幼稚園教諭をやっていた方だった。

 小学校入学間近になって、その先生が親に言った。
「実はお宅のお子さん、このまま小学校の普通級に進学できるか、できないか、僕は心配してました」
 確かに問題行動や忘れ物が多くて、どう見てもその他の「普通の園児」とは違っていた私。

「だけど、小学校入学前の知能テストの結果を待つことにしました。するとどうでしょう、お宅のお子さんの知能指数、園児のトップですよ。しかも6歳児ではあり得ないレベルでした」
 そして先生は「僕もまだまだ勉強不足でした。お宅のお子さんには正直、驚かされました」と言った。

 親は「人の子を馬鹿にして」と怒っていた。親の欲目には、私は立派な幼稚園児に見えていたらしい。

 しかし、問題は知能指数やIQではない。

 一言で言えば「バカじゃない」はずの私が、どうしてあんなに、人の評価によって天国と地獄を行ったり来たりしなくてはならなかったのか?
 別に、「天才だ」とか「素晴らしい」という人に思われたいわけでない。
 友達が沢山ほしいわけでも、先生から高い評価を得たいわけでもない。

 普通の人として、普通に生きてきたかったのに、「変な人」と「面白い人」の丁半博打に、毎回心を痛め、憂鬱な気分になり、ある時はビクビク、ある時はがっくりしながら、生きてこなくてはいけなかったんだろう。

あえてその人生に答えを求めるとするならば・・・・

 親が悪い・・・
 先生が悪い・・・・
 まわりの同級生が悪い・・・・

 という「他責思考」。

 自分の責任ではないという、「人のせい」「世の中のせい」の生き方で、私は自分を守ってきた。

 ともすると劣等感や自己否定、自分なんて・・・という「自己憐憫」におちいりそうだった。
 だけど、その先にあるもっとつらい生き方だけは嫌だった。

 というのも、実は、親が・・・・というか、実質的に「母」がそうだったのだ。
 母はずっと精神的や心療内科に通い、メンタルの不調に振り回され、不自由な人生を終えた。
「あんなふうにだけは、絶対になりたくない」
 と思って生きてきた。

 「世の中のせい」と思ったのは、ある意味、保身だった。自分せいと思ったら、母のような不幸な人生になるところだった。

 だけどいつまでも、他責思考でいいのだろうか。このまま、人生の終焉に向かって、静かに目立たぬように、余力で生きればいいのだろうか。

 「わたしってADHDだったの?」という問いには、一筋の光明が見える気がする。
 
 だから何をするとか、だったらこうしようとか、今はよくわからないけど、その視点はなかったな、新しい解決策が見つかるかもな、と前向きになれる。

 ただ、詐欺には気をつけないとね。人の弱みにつけ込んでくる奴らがいるからな。

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