映画「太陽がいっぱい」のあらすじ(ネタバレ)と感想

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 映画「太陽がいっぱい」を観た感想です。

 映画界のレジェンド、アラン・ドロン氏が2024年8月18日に亡くなった。
 アラン・ドロンと言えば、私が子どもの頃は「ハンサム」の代名詞。たいていのいい男は、
「まるで、アラン・ドロンのような」
 と形容されたものだ。

 映画「太陽がいっぱい」は、およそ50年前、テレビで放送されているのを観た。調べたら1972年10月6日『ゴールデン洋画劇場』で放送されているから、52年前、私が4歳の時だ。

 横で母が逐一「これは他人のサインを練習しているのよ」「これは他人になりすましているのよ」と解説してくれたおかげで、あらすじもわかったし、ラストの意味も理解できた。

 あれから半世紀、実は去年(2023年)BSNHKで「太陽がいっぱい」が放送されていて、録画したままずっと観ていなかった。アラン・ドロン死去のニュースを知って、見ようかなと思いつつも、まだ観ていない。だってストーリーや結末を全部覚えているから。

 ある意味、4歳の子どもが観て、それから50年経ってもストーリーを忘れないくらい印象的な映画が「太陽がいっぱい」だ。

 今日ラジオを聴いていてたら「アラン・ドロンさん、亡くなりましたね」という話題が出て、そのあとにゴッドファーザーのテーマが流れていた。え?違くない?これはゴッドファーザーのテーマだよね・・・・と思ったけど、あとでアマゾンミュージックで「太陽がいっぱい」のテーマを検索したら同じCDにゴッドファーザーのテーマも入ってた。

 どちらも同じイタリアの作曲家ニーノ・ロータの作品だった。だからラジオで間違えてゴッドファーザーのテーマが流れたのかな?

 たしかにアマゾンミュージックで「太陽がいっぱい」で検索すると、「ベスト・オブ・ニーノ・ロータ」が最初に出てきて、そのまま再生すると1曲目が「ゴッドファーザー」だった。


ベスト・オブ・ニーノ・ロータ
目次

映画「太陽がいっぱい」のあらすじ(ネタバレ)

 貧しい青年トム(アラン・ドロン)がイタリアのナポリに近い漁村モンジベッロにやって来る。目的はアメリカのお金持ちの息子、フィリップをアメリカに連れ戻すため。

 なおネット検索すると、トムは「偶然、船の客室係として乗り合わせ」フィリップの父親と出会ったという謎の「あらすじ」が出てくるけど、そんな場面は原作にも映画にもない。映画ではすでにトムがイタリアにいて、フィリップとオープンカフェで絵葉書にサインを書く場面から始まる。

 トムは、フィリップの父親から「フィリップをアメリカのサンフランシスコに連れ戻す事ができたら、5000ドルをやる」と言われイタリアにやって来たので、なんとしてもフィリップをアメリカに連れ戻したい。

 しかしフィリップは、モンジベッロでマージュという女性と暮らしており、アメリカに帰る気はさらさらない。フィリップは貧しいトムを見下し、「アメリカには帰らない」と言い放ち、トムを下僕ように扱って雑用を言いつけ、マージュと自分の関係を見せつける。

 クルーザーで、小旅行に出るフィリップとマージュだが、トムも同行することになり3人でクルーザーに乗り込む。トムは、フィリップとマージュの情事を見せつけられたり、小舟で沖に放置されたりとひどい扱いをうける。

 トムは隠し持っていたイヤリングを、こっそりフィリップのポケットに忍ばせる。それは先日、ローマの町でトムとフィリップが悪ふざけした時に出会った、女の落とし物だ。

 イヤリングを見つけたマージュはフィリップの浮気を疑い、二人は険悪になる。マージュは結局、途中の港で下船する。トムはフィリップと二人だけクルーザーに残ったタイミングで、フィリップをナイフで刺して殺害する。

 トムはフィリップの遺体を、船のイカリと共にヨットの帆布で包み、海に投げ捨てる。

 モンジベッロの港に戻ったトムは、パスポートの写真を貼り替えたり、フィリップのサインを完全に真似たりして、フィリップになりすます偽装工作をする。訪ねてきたフィリップの友人フレディに「なりすまし」がバレそうになると、フレディまで殺害してしまう。

 フレディの遺体が発見されたことで、イタリアの警察が動き出す。

 トムは偽装工作を続け、フレディ殺害犯はフィリップであると捜査を撹乱する。銀行でフィリップの1000万リラの預金を引き出すことにも成功する。

 トムはフィリップになりすまして母宛の手紙に自殺をほのめかして「すべての財産を愛するマージュへ贈る」と書き、銀行から引き出した1000万リラも「マージュへ」という書き置きと共にモンジベッロのフィリップの部屋に残して立ち去る。ローマに戻ってホテルで寝ていたトムの元に、事件を捜査しているイタリアの刑事がやって来て、フィリップはフレディ殺害を後悔して自殺したかもしれないと言う。

 トムはモンジベッロの港に再び戻り、フィリップが自殺してしまったと思いこんでショックを受けているマージュに巧みに言い寄って、心と体を手に入れる。

 フィリップのクルーザーを売却するために、アメリカからフィリップの父がやって来る。トムといっしょに海水浴を楽しんでいたマージュを、メイドが呼びに来る。
「お父様はとてもいい人よ。息子の遺言は必ず守ると言ってくれている」
 マージュはトムにそう告げて、フィリップの父が待つ港へ向かう。

 マージュがフィリップの父と共に、クルーザーの売却に立ち会うため港に行っているあいだ、トムは海辺のカフェでマージュを待つ。全てが計画通りで、このまま上手く行けばフィリップの遺産はマージュと共に、自分のものになるも同然だった。
「最高の気分だ」
 デッキチェアで何度も、そうつぶやくトム。

 そのころ港では、クルーザーを陸に引き上げて、買い手立ち会いのもと形式的な確認作業が行われていた。引き上げられた船のスクリューにはロープが複雑に絡まっており、ロープに引きずられて帆布に包まれた人の形の物体が現れた。帆布の一部からは、腐敗した人の手が突き出しており、マージュはそれを目撃して叫び声を上げる。

 デッキチェアで太陽を浴びてくつろぐトム。カフェに刑事が数名やって来る。何も知らないトムは、ご満悦で酒を飲んでいる。刑事は悟られないように、カフェの女主人に「電話だと言ってトムを呼び寄せろ」と指示する。
「リプレーさん、電話ですよ」
 その声に何の疑いもなく、立ち上がって歩き出すトムだった。

映画「太陽がいっぱい」の感想

 ラストは「あとはご想像におまかせ」スタイルでした。間違いなく、トムは逮捕され、全てが露見するのだと思います。

 ところで、映画を観ていると「フランス語で喋っているのに、アメリカに実家があるの?」という矛盾を感じるけど、そのへんはあまり深く考えないこと。原作はアメリカの作家パトリシア・ハイスミス。

 本来の主人公トムは、原作では「ニューヨークで小さな信用詐欺を繰り返しているアメリカの青年」となっている。これをフランスの映画監督ルネ・クレマンがフランス人俳優を使って映画化したので、登場人物の主要3名は原作では皆アメリカ人だけど、映画ではフランス語でしゃべっている。マージュは「パリに帰る」なんてセリフがあるから、設定はフランス人なのか?だけど、フィリップやトムのセリフには「アメリカに帰る」とかあって、混乱しますね。

 まだ観てないけど、より原作に忠実と言われているマット・デイモン主演のアメリカ映画「リプリー」もあります。

 ほぼ4歳の時に観たストーリーそのままで、特に衝撃的なラストはまったくあのまま、覚えていたとおりでした。

 ただ、さすがに今になってわかる部分も沢山あった。てっきりトムはマージュに恋愛感情があって、マージュを自分のものにするためにフィリップを殺害するストーリーだと思っていた。このへんは私がというより、4歳のときの母の解説がそういう感じだったのだと思います。

 でも、今回観て思ったのは、トムはマージュに対して恋愛感情がないわけではないかもしれないけど、それよりもっと大きいのは「フィリップの遺産を自分のものにしたい」という感情。マージュに言い寄ったのは計画的な行動で、自ら偽装工作でフィリップの遺書に「遺産をマージュに」と書いておいて、マージュ経由で財産を手に入れるつもりだったと解釈しました。

 それにしても美しい。

 この映画でアラン・ドロンの人気が世界的になったというのも納得の、美男子っぷり。しかも、めちゃくちゃイケメンだけど、ものすごく悪い人ってことで、ピカレスクロマンの真骨頂という感じ。

 気になったので原作も少し読んでみた。Amazonの読み放題Kindle Unlimitedにあったので、すぐに読めた。


太陽がいっぱい

 原作ではマージュ(マージ)はフィリップの「女友達」になっている。「村で二人だけのアメリカ人」ともある。映画ではマージュは「婚約者」。

 原作では最初、フィリップとマージュは友人関係なんだけど、トムがアメリカからイタリアの村に現れたことでだんだんフィリップとマージュの中が近づいていく。トムは二人がキスしているところを見てしまい取り乱す。恋愛感情ではなく、フィリップが明らかにマージュと友達関係を続けるために、本気でもないのにキスをしてるとわかるから、取り乱したのだ。

 また原作ではフィリップが「ディッキー」という名称。これには理由があって、監督が「十二使徒の一人フィリポ」からイメージして役名をフィリップに変えたという説がある。

 そしてなにより、原作では「ハンサム」はフィリップ(ディッキー)の方で、
「ディッキーはハンサムだ。りっぱな整った長い顔、敏捷な賢い目、衣服などに無関心で自信をもって振る舞うことなど、彼はたしかになみはずれた人物らしい風格がある。」
 という描写がある。

 映画でも最初の計画では、アラン・ドロンがディッキー(フィリップ)役の予定だったという説もある。

 また、映画ではヨットのシーンが印象的だけど、原作ではディッキー(フィリップ)が殺害されるのはボート。

 そして、映画ではいささかフィリップが殺される場面が唐突である。お金持ちで、トムを見下していて、確かにフィリップは嫌な奴だけど、殺すほどなの?て思ってしまう。

 原作はニューヨークでくすぶっているトムが、ディッキー(フィリップ)の父から「息子をアメリカに連れ戻して欲しい」と依頼される場面から始まっている。それまでの冴えないトムの暮らしぶりや、ニューヨークの友人関係や、トムのアメリカ生活の行き詰まりがよくわかる場面が多々あり、ディッキー(フィリップ)の父の依頼を受けたことがトムには「とてもラッキーなこと」で、「チャンス」でもあり、人生の転機であることがわかる。

 ヨーロッパに行くための船の客室で、ディッキー(フィリップ)の両親から「無事な航海を祈る」という手紙つきのフルーツ盛りを見つけたトムは、両手に顔をうずめてすすり泣く。トムにとってそんな好意を受けるのは始めてのことで、泣くほど嬉しかったのだ。

 だからトムはなんとしても、「金持ちの放蕩息子をアメリカに連れ帰る」という任務を完了させて、ディッキーの父から評価されたかった。原作には映画のような「報酬がもらえる」という話はなくて、トムは単に金持ちであるディッキーの父に気に入られるために、仕事を引き受けます。これをきっかけに、ディッキーの父から評価されて、自分の思い描く人生が遅れるチャンスだ、とトムは思っていました。

 ところがディッキーはのらりくらりで、トムの意に沿わないばかりか、トムを見下してくる。トムには焦りがあった。ディッキーをアメリカに連れ帰る事ができないとなると、自分は信頼を失って再びあのニューヨークでの「行き詰まり」の冴えない人生に戻らなくてはならなくなる。

 そんな焦燥感や、ディッキーへの嫉妬心から、トムは凶行に走ったのだと思います。
 原作を読むと、トムの殺意の理由がよくわかるのですが、映画ではもう、唐突というか、短絡的というか、無計画にすら見える気がしました。なので後半の緻密な「なりすまし」が、急に殺したわりにはずいぶん、計画的に事を運んでいるなという違和感もありますが、とにかく「ツッコミどころ」は全て、アラン・ドロンの美貌で、どうでも良くなる。

 こうなってくると「より原作に忠実」と言われているマット・デイモンの「リプリー」も見たくなってきた。その前に原作を最後まで読み切ろう。

 ストーリーはともかく、水野晴郎さんじゃないけど「映画って本当にいいですね」です。あのアラン・ドロンの、光り輝くような美しい顔を、フィルムの中に半永久的に閉じ込めた。アラン・ドロンは世を去っても「太陽がいっぱい」のトムの若さと美しさは永遠だ。細部は気にせず、アラン・ドロンの美貌をじっくり堪能する作品。目の保養とはまさに、このこと。


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