TBSラジオの安住アナウンサーの番組「日曜天国」に、毎年年末の恒例ゲストとして出演の、伝説のジェンダー超え「吉野ママ」。
以前読んだ「日本のおかま第一号」という本にも、吉野ママこと吉野寿雄さんの若い頃のエピソードがありました。
また、その吉野ママが「お世話になった」と語る、元祖、オネエの「やなぎのママ」とは?
吉野ママを発掘したレジェンドのゲイバー「やなぎ」のママとは?
「日本最初のゲイバーをつくった」という方は通称「お島さん」。
吉野ママも最初は、お島さんのお店「やなぎ」で「お運び」として働いていました。
日本のおかま第一号―あなたは仕事に誇りをもっていますか? (ダ・ヴィンチブックス)
1999年に出版された「日本のおかま第一号」という本。
お島さんをはじめとする、様々なサービス業のプロフェッショナルな方々を紹介している本です。
この中に、お島さんのことと、戦後間もない時代にお島さんや吉野ママが働いていたゲイバー「やなぎ」のことが紹介されています。
1999年の出版当時は「おかま」というキーワードも「あり」だった。
これが後に改題され「サービスの達人たち」というタイトルになっています(内容は同じものです)。
「サービスの達人」は新潮文庫の電子書籍として現在も購入できるので、お島さんのことが気になる方は↓こちら。
サービスの達人たち(新潮文庫)
伝説のジェンダー越え吉野のママとは?
吉野のママ。
私が安住アナの番組で最初に拝見したのは、2012年3月9日放送の「ぴったんこカン・カン」でした。
その後、安住アナのラジオ番組「日曜天国」に、毎年ゲスト出演されています。
ぴったんこカン・カンカンでは、「オネエ組合の組合長みたいな存在」と紹介されていました。
「戦時中は木銃(ぼくじゅう=木の銃)を持たされて、え~ぃとやるのが辛かったわぁ。戦争が終わって、ぱーとひらけたわね。アンタ達はいい時代に生まれたわね」
と、同席したカバちゃんやクリス松村さんも神妙に拝聴するようなエピソードが満載でした。
私は以前からこの方、テレビで見かけた気もするけど、青江のママと吉野のママ、どっちがどっちか区別ができませんでした。
「日本のおかま第一号(改題・サービスの達人たち)」を読んでようやく、青江のママと、吉野のママを理解しました。
この本、吉野のママの本というわけではなく、サービス業に携わるプロ意識の高い人が9人紹介されています。一番有名なのはオードリー・ヘップバーンの靴を磨いたといわれる「キャピトル東急ホテルの靴磨き」の方でしょうか。
お島さんと吉野のママの関係
この中で「日本のおかま第一号」で「日本最初のゲイバーをつくった男」として紹介されているのは島田正雄(通称お島さん)さんです。
戦後間もない昭和25年に、東京・新橋の烏森(からすもり)神社境内付近に日本最初のゲイバー「やなぎ」を開店したのが「お島さん」です。
「やなぎ」はたちまち繁盛して、従業員として雇ったのがのちの「青江のママ」こと青江忠一さんと、「吉野のママ」こと吉野寿雄さん。
つまり「吉野ママ」は、日本で最初のゲイバーに従業員として雇われ、伝説のママ「お島さん」の元で働いていた人。
ただし、ネット上には「戦前の昭和初年には既に、ゲイバー・ゲイクラブはあった」という説もあり、必ずしも「やなぎ」が「日本最初のゲイバー」ではないとも言われています。
▼くわしくはこちら
やなぎ (ゲイバー)Wikipedia
「吉野ママ」は、「やなぎ」のお島さんの元で修行をつんで、31歳で独立。
銀座・数寄屋橋に「ボンヌール」を開店。
1964年の東京オリンピック開幕間際、六本木に「吉野」を開店。
▼くわしくはこちら
吉野 (ゲイバー)Wikipedia
「オネエ戦国時代があったとしたら、お島ママは信長、秀吉が青江さんで家康が吉野のママかな。」
という、非常に興味深いブログ(2016年11月のもの)もあります。
▼くわしくはこちら
キヌブログ!
新宿5丁目の閉ざされたバー、LE QUINE GUINEの店主が綴る悲喜交々。
一流芸能人が押し寄せた伝説のゲイバー「吉野」のその後
2012年3月の「ぴったんこカン・カン」の吉野ママのお話しによると、石原裕次郎や勝新太郎をはじめとした当時の一流芸能人で六本木「吉野」は大変繁盛。
高倉健さんと長嶋茂雄さんの間で微笑む吉野ママの写真も紹介されました。
その後「吉野」は六本木ヒルズ建設に伴う立ち退き移転を迫られたため、2002年(平成14年)に閉店しました。
吉野ママは高倉健さんとは親交が深く、高倉健さん主演の映画「網走番外地」のシリーズには、吉野寿雄の名前で何作か出演されています。
網走番外地 [DVD]
オネエ界のもう一人のレジェンド「青江ママ」のその後
「日本最初のゲイバー」と言われた、お島さんの店「やなぎ」。
お島さんの元で、業界のしきたりを学んだのが青江のママと吉野のママ。
吉野のママは令和の時代もご顕在だけど、青江のママは?
青江のママこと青江忠一さんも、「やなぎ」で修行したのち、1954年(昭和29年)銀座二丁目の並木通りにゲイバー「青江」を開店。
青江のママは、カルーセル麻紀さんの育ての親とも言われています。
また赤坂「ニューはる」の春駒さんという方も、青江で学生時代からアルバイトされ、2024年に「銀座デビュー 65周年」を迎えられパーティーが開かれました。
デヴィ夫人のブログには、吉野ママ、春駒ママ、カルーセル麻紀さんとのパーティーの様子が公開されています(左から春駒さん、カルーセル麻紀さん、デヴィ夫人、吉野ママ)。
そんなカルーセル麻紀さんや春駒さんの育ての親でもある青江のママ。
私の記憶では昭和から平成の始めころ、テレビでお姿を拝見しました。
着物姿で、髪は黒柳徹子さん風のたまねぎヘア。
上の画像でもわかるように、弟子(?)の春駒さんや吉野ママは男装・・・というか、女装はされていませんが、青江のママはいわゆる「銀座のママ」風の女装の方でした。
今思うと、現在のマツコ・デラックスさんに匹敵するような「女装のジェンダー超えご意見番」のような存在でしたが、当時は世の中がまだ受け入れ態勢が整っていなかった。
今のマツコ・デラックスさんほど頻繁に、テレビで観るわけではありませんでした。
それでも私の記憶が確かなら、平成の始めころまでは青江のママもお元気な様子で、上岡龍太郎さんが司会されていた深夜の情報番組「EXテレビ」などに出演されていました。
中でも数回放送された記憶がある『おねえVSおなべ座談会』は印象的でした。
東西のレジェンド級「おねえ」と「おなべ」が5対5くらいで座談会・・・という内容でした。
その時に青江のママが発言した、
「わたしたちみたいな存在は、隠花植物だから」
という言葉。衝撃を受けて忘れられません。
「ぴったんこカンカン」で吉野ママが、
「オネエの末路はねえ・・・それ言われると私、一番困るわ。
もう、私、弁解のしようがない。
みんな、死んだりとか・・・あとは養護施設・・・・・・・だいたい養護施設よねえ。
なんでかしら・・・・オネエって男に貢ぎすぎるのかしらねえ。
これ(とOKサイン=お金の意味)貯めなきゃね」
とお話しされました。
吉野ママと並び称された「青江のママ」は平成7年~8年頃に養護施設でお亡くなりになったという情報がありました。
青江のママが半生を綴った著書「地獄へ行こか 青江へ行こうか―女より女らしく・青江ママのゲイ道一筋六十年」はすでに絶版となり、中古品は高値で取引されています。
ラジオ「安住紳一郎の日曜天国」伝説のジェンダー超え吉野ママ
2024年の最新情報です。
毎年恒例のTBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」の年末(2024年12月15日)の放送に、今年も吉野ママが登場。
ラジコのタイムフリーでも視聴できますが、「日曜天国」公式You Tubeでも配信されています。
「安住紳一郎の日曜天国」吉野ママ過去放送回
▼過去の「吉野ママ」放送回も、YouTubeやポッドキャストで聴けます。
★2021.12.19「伝説のジェンダー越え・吉野寿雄さん〜吉野ママ(ポッドキャスト)
★2020.12.20「伝説のジェンダー超え・吉野寿雄さん〜卒寿!吉野ママ(ポッドキャスト)
★2019.12.15「伝説のジェンダー超え・吉野ママ(ポッドキャスト)
まだまだあります。
↓「吉野ママ」で検索!
【Amazonポッドキャスト】安住紳一郎の日曜天国
吉野ママのお話のまとめ
毎回「お島さん」や「やなぎ」の話は、「初めて聴く人に説明すると・・・」ということで話題になります。
過去の放送での吉野ママのお話をまとめると、昭和25年に『やなぎ』が開店。
「まだ正式には食堂はできない時期で、お米も配給だったから、闇(やみ)でカツ丼とかカレーライスを作って売ってた。
新橋には花柳界がありますから、そこの芸者さんとかが注文して、それをあたしがお茶屋さんなどに運んでいた、お運びガールだったの」
などのエピソードがありました。
「やなぎ」はもともと食堂だったけど、向かいの店はバーでいつも混んでいるのをお島さんが見て、「食堂じゃ儲からない、うちもバーをやろう」ということになり、徐々にゲイバーになっていったそうです。
当時お島さんは外国人の方とお付き合いしていた。
その方にPX(ピーエックス)からジンやウイスキーを買ってきてもらうことができた。
ちなみにここで言う「PX」とは、日本に駐留していた進駐軍の売店のこと。
当時のPXで日本人が買い物することはできず、進駐軍の外国人だけが出入りできる店でしがた、お島さんの恋人(?)の外国人にいわゆる「横流し」のようなことをしてもらってお酒を手に入れ、「やなぎ」で売った。
食堂をやるにはコックさんなど雇う必要があったが、お酒を売るなら氷と水さえあれば商売できるから、お島さんの機転で「(商売を)パッと切り替えた」のだそうです。
「食べ物は全部、コンビーフとかなんとかPXから闇で手に入ったから、多くの人が進駐軍と付き合ったんじゃないですか。
服部和光が当時PXで、あそこの前へ行くとドーナツとかパップコン(ポップコーン)の匂いがプンプンしてみんな、つられてねえ・・・・」
との吉野ママのお話しでした。