今回は、1980年代に世田谷の用賀にあった「アメリカ村」の思い出話です。よく行った、懐かしいという方や、行ったことはないけどどんな所だったか知りたいという方、そして、今近所に住んでいるけど、このあたりが昔どうだったか知りたいという方はどうぞ、引き続きお読み下さい。
私が1987年に田舎から上京して、最初に住んだのが世田谷区の用賀だった。
■わたしが用賀に来る前に住んでいた街は2024年世界的に注目の観光地に?!
最寄り駅は「用賀」だが、住所は正しくは世田谷区瀬田。用賀インターの近くだ。
当時、あのあたりは「用賀アメリカ村」とか「瀬田アメリカ村」「環八アメリカ村」と呼ばれていて、おしゃれなレストランが沢山あった。超大物の女性シンガーのお住まいが近くにあるとか、某有名脚本家も、若かりし頃に高級フレンチ店と勘違いし、デートで訪れたとか・・・。
2020年の今、ほとんどのレストランは閉店していて、もはや誰も「アメリカ村」なんて呼んでいない。というか、用賀アメリカ村はとっくの昔に消滅していたのだった。
そしてネット上で「用賀アメリカ村」のことを検索してみても、ほとんど情報がない。
いくつかのブログでは、当時を懐かしんでの「あのころ、よく行った」「朝までレストランで語り合った」という記述があったけど、微妙に情報が間違っているようなものが多く、こうなったら私が書くしかない(誰も望んでないと思うけど 汗)。
私だって、あと数年で記憶の中から「用賀アメリカ村」を消滅させてしまうかもしれない。そうなる前に、覚えていることを備忘録として2020年の今、残しておきたいと思う。
「用賀アメリカ村」とは?
環八通り(東京都道311号環状八号線)と、首都高速3号渋谷線が交差する「環八東名入口交差点」付近。
首都高速3号渋谷線の「用賀出入口」と、東名高速道路の起点となる「東京インターチェンジ」が隣接している世田谷区瀬田5丁目周辺。
2020年現在の「スターバックス用賀店」ガソリンスタンドの「エネオス」や住宅展示場の「ハウジングプラザ瀬田」があるあたりに、1980年代から90年代にかけて存在したのが「用賀アメリカ村」である。(再検証した結果、訂正しました)
アーリーアメリカンとか、コロニアル様式と言われるような白い壁に円柱のあるベランダが特徴の建物に、広い芝生の前庭、英語表記の看板などがあるレストランが数件集まって、そこだけまるで古き良きアメリカのような雰囲気を醸し出していた。
いつごろからそう呼ばれるようになったのかは定かではない。
私が用賀に住み始めた1987年にはすでに「用賀アメリカ村」が完成形だったことから、1980年代前半からレストランがオープンし、80年代後半の「バブル経済」真っ只中の時代に「用賀アメリカ村」ともてはやされ、その後、バブル崩壊とともに消滅したものと思われる。
私は残念ながら3年弱しか用賀に住んでいなかった。
少なくとも、私が用賀を去る1989年にはまだ「用賀アメリカ村」は健在だった。
用賀アメリカ村の画像
ネット上で「用賀アメリカ村」の画像を検索した。
いくらでも当時の画像はあるだろうと検索してみても、不思議なことに用賀アメリカ村の画像は見つからない。
こんなことなら、当時の「用賀アメリカ村」の写真を、私自身がもっと撮っておけばよかったと後悔する。
あのころ、大学生やスノッブな大人たちに大人気だった「用賀アメリカ村」の3大レストラン「イエスタデイ」「プレストンウッド」「デニーズ」のうち、最後まで残っていたデニーズ用賀店(2012年閉店)のみ、ネット上でも画像が見つかった。
しかしプレストンウッドとして出回っている画像は「え?これ」て感じだし、「かつての用賀イエスタデイ」として出回っている夜のレストランの画像はかなり怪しいと思う。イエスタデイには間違いないが用賀店ではないような・・・。
私の記憶が確かなら、当時「イエスタデイ」の店先には一時期ヨットがディスプレイされていた。
歩道からお店の入り口まで20mくらいのエントランスがあって、前庭みたいな芝生の広いスペースに、小体なヨットが置かれていたはず。
探し続けた結果、1991年に世田谷区から発行された小冊子「せたがや百景」に「環八アメリカ村の風景」の画像があった。「せがたや百景」とは、昭和59年(1984年)に世田谷区が発案し、世田谷区民の投票によって選出された風景・景観の百選だ。選定は1984年だが、小冊子はそれから7年後に発行されたらしい。
もはやアレクサンドリアの海底遺跡を発見したみたいな心もちである。
しかし私の記憶にあったヨットは画像にない。おそらく1987~89年ころまでイエスタディのエントランスにディスプレイされていたのだと思う。
画像の右が北、左が南方向になり、右方向に進むと杉並、練馬方面、左方向には環八と246号線が交差する「瀬田交差点」や第三京浜の玉川インターがある。
3つあるレストランがわかるだろうか?画像手前が「デニーズ用賀店」を裏側から見た様子で、その前を走る道路が環八。その向こう側、右奥が「プレストンウッド」、左奥が「イエスタディ」。都市伝説として、近所に住む松任谷由実さんが夜な夜なこの「イエスタディ」で若者の会話を小耳に挟みながら、そこからヒントを得て作詞していると言われていたけど、ホントだかどうだか。
実際、この頃近所を探索していたら、デカデカと「MATSUTOUYA」というローマ字表記の表札を掲げたお家があって、まさかユーミンの自宅ではないだろうと思いつつ、会社の人に話したら「それ、間違いないよ。ユーミンの家だ」と言われて、くだんの都市伝説を教えられた。ちなみにユーミンのご自宅は今も同じエリアにあるが、当時私が目撃した場所からは転居されている。
▼「せたがや百景」のpdfはこちら
世田谷区公式サイト『せたがや百景』
画像を見ていて急に思い出したが、当時1988年か1989年ころ、画面左奥の「イエスタディ」の裏側で大規模な火災があった。会社が休みの日曜日の午後だったのでよく覚えている。午後3時ころ、寝転んでテレビを見ていたら「火事だ、火事だ」と騒ぐ声が聞こえてきて驚いた。古い木造住宅の一軒家と、隣接する民家の一部(ベランダの柵など)が燃えた。一歩間違えばイエスタディやプレストンウッドまで巻き込んでの大惨事になるところだったが、火は燃え広がらなかった。私が住んでいたアパートも近かったので恐怖に震え、翌週、速攻で万が一火事に遭遇して家財が全焼しても保証される火災保険に加入した私である。
用賀アメリカ村の勘違い
「せたがや百景」に関しては、いまだに「82景・環八アメリカ村」という表記が住宅地図の一部などに残っているために、現在の瀬田5丁目あたりを訪ねた当時を知らない若者が「マクドナルドとスタバがあるので、これがアメリカ村なのか・・・」と大いなる勘違いをしていることがある。
某ブログに、そういった内容が記述されているのも見たし、もっとひどいのになると、動画サイトで「ここがアメリカ村」と紹介しているものもあった。
もう一度言っておきますが「用賀アメリカ村」はすでに消滅しており、現在のマクドナルドやスターバックスのあるあたりのことではなく、上記の白塗りの3大レストランがあった1980年代の名称だ。
↓これなんか典型的な勘違いのパターン。若者よ、そこはもうとっくの昔に「アメリカ村」ではないのだよ。
用賀アメリカ村にあったレストランの実態
ちなみに「アメリカ村」とだけ表記すると、大阪の心斎橋にある「アメリカ村」と混同するので、あえて「用賀アメリカ村」と書く。
すでに書いたように「用賀アメリカ村」を象徴していたのが「デニーズ」「イエスタデイ」「プレストンウッド」の3大レストランだ。
当時、田舎から上京したての私は、アパートの大家さんから、
「この辺はねえ、最近アメリカ村なんて呼ばれて、若い人に人気でねえ・・・レストランが沢山あるでしょう」
と聞いて、敷居の高い高級レストランと思い込んでいた。
しかしその実態は、3店ともファミレスのちょっと高級版、というものであったことを令和の今、知る。
近くにある砧公園(きぬたこうえん)
デニーズはもちろんのこと、イエスタデイは「すかいらーく」系列、「プレストンウッド」は森永製菓がかつて展開していたレストラン事業「レストラン森永」系列(現在は消滅)だったのだ。
つまりは、オーナーシェフがやっている高級レストランというわけではなく、ファミレスのちょっと高級版が「用賀アメリカ村」の中心だったという事実。
上京したてで「おのぼりさん」だった私は、それらのレストランを「これが東京の高級レストランというものか」と思いこんでいた。本当は、そうではない。実際の高級レストランとは、今でいう「三つ星レストラン」のようなもので、用賀アメリカ村にあった3大レストランは、今あったとしても星がつくようなタイプではなかった。
レストランの見た目や内装がおしゃれで、食事の価格はちょっとお高めではあるが、本当の高級レストランほど高額ではない。そして、なんと言っても「あそこは、車がないと行きづらい」というコンセプトが人気に拍車をかけたのではないだろうか。
近所(というか、ほぼすぐ裏)に住んでいたのでよくわかるが、あの辺りは最寄り駅の用賀まで歩くと15分近くかかる。
電車利用者が行くような場所ではなく、当時は「東名高速」や「第三京浜」で遠出する人の立ち寄り場所だったり、ちょっと第三京浜で横浜方面にドライブしてきた若者が、世田谷に帰ってきて、帰宅する前に小腹を満たすような高級ファミレスだった。
かつて用賀アメリカ村にあった店と今もある店
ちなみに、3大レストランのほかにも飲食店があった。
当時(1985年ころ)の「マクドナルド用賀インター店」の開店を紹介する雑誌記事はこちら。
写真の説明には、
『東名用賀インターの入口に、8月14日にオープンした。イエスタディ、デニーズ、プレストンウッドの3店が集結した、瀬田の通称アメリカ村への出店で、白いリゾートタイプを意識した外観が映える。』
『店舗はドライブスルー併設型で、規模は575.4㎡150席。大型店で導入が始まったパーティションに、同店が初導入の天井のファン、天窓、花柄の壁、カーテンなど、居住性の向上を図る工夫が随所に凝らされている。』
とある。
これを見るとマクドナルド用賀インター店は今(2020年)の外観とは違って、用賀アメリカ村の他のレストラン同様真っ白な外装だったことと、内装も当時としてはかなり豪華(パテーションとか天井のファンとか)だったことがわかる。
さらにマクドナルド用賀インター店が日本国内での「マクドナルド500号店」であり、その記念の出店ということでアメリカ村に建設されたということも知らなかった。
2020年現在の様子と1985年の開店当時の画像で、大きく違うのがマクドナルドの白い外観もさることながら、背景。開店当時、マクドナルドの向こう側にはこんもりと樹木の茂った森?林?のようなものがあるが、現在はマンションが建っている。そういえば1987年頃にも、マクドナルドの向こうに雑木林のようなものがあった記憶がおぼろげながらある。
2020年も現存するのが、
・マクドナルド 用賀インター店
・木曽路 用賀店
の2店。
閉店したのが、3大レストランの他に、
・すかいらーく
・弁当店
そしてもうひとつ、東名と環八の交差点のところ、環八をはさんでマクドナルドの向かい側には当時、ラブホテルが1件だけあった。
現在は跡地にマンションが建っている。
用賀アメリカ村の「すかいらーく」
実は、私が当時一番利用していたのは「すかいらーく」の方だった。
3大レストランは環八に面した場所にあったが、「すかいらーく」も目立たない場所にあった。
環八側から見てマクドナルドの裏の方、東名高速の入り口に向かう道路のわき、現在の「マクドナルド第2駐車場」となっている場所が、かつては24時間営業の「すかいらーく」だったのだ。
え?あんなところに「すかいらーく」なんてあった?と思うだろうが、何度も行ったので間違いなくあったのだ。
3大レストランは敷居が高くて、それぞれ1回くらいしか行ってないが、「すかいらーく」は当時からリーズナブルで、なにかと利用していた。
特に、1987年当時、休みの前の日になると「すかいらーく」に夜中の2時とか3時に一人で行く、というのが私の密かな楽しみだった。
時刻は午前3時。入り口で店員さんに、
「なん名様ですか?」
と聞かれて、
「ひとりです」
と答えると、大抵の場合「え?」という顔をされた。
若い女が、こんな夜中に一人でなぜ?みたいな空気が、お店の人の顔に一瞬サッとよぎる。
しかも私の服装は、部屋着に一枚羽織っただけみたいな軽装。
タンクトップに短パンにパーカーという出で立ちで、この女、どこからこの格好で夜道を歩いてきたのか、という顔をされた・・・・・ような気がしていたのは私だけかもしれないが、自宅がすぐ裏にあるので、ほぼ部屋着で行けたのだった(思い返すと死ぬほど恥ずかしいです)。
さらに、その「すかいらーく」の並びには弁当屋さんがあった。いわゆる「ほかほか弁当」のようなお店だったけど、チェーン店ではない、個人経営のお店だったと思う。(後にこのブログを読んだ方から情報提供いただき「ジャンプ亭」という店名が判明。ほかほか弁当の他に、ラーメンやうどん・そばなどの飲食も店内でできたお店でした。私はお弁当しか利用したことがなかった)
東名高速の入り口なので、トラック運転手の方などが利用していたのだと思う。
お弁当店には駐車場がなくて、当時お店の前には大型トラックが数台、いつも路上駐車していた。
揚げ物がどれも、ものすごく脂っこいお弁当ばかりで、決して美味しいわけじゃなかったが、私は「すかいらーく」と同様に、そのお弁当店もよく利用した。
当時安月給の会社員だった私は、給料日になると「今夜の晩ごはんはマクドナルドのビックマックか、唐揚げ弁当か、すかいらーくのハンバーグセットか、どれにしよう・・・うーん、迷っちゃう」というのが、最高の贅沢だと思っていた。
ちなみに、今現在は「ジョナサン用賀店」が別の場所(用賀駅の近く)にある。
ジョナサンも「すかいらーくグループ」のチェーン店レストランなので、用賀アメリカ村にあった「すかいらーく」が移転して、ジョナサン用賀店になったとも考えられるが、詳しいことはわからない。
用賀インター付近の当時の映像(動画)
【追記】
このブログを読んだ方からの情報提供で、当時の映像が動画サイトにあることを知りました。
「用賀アメリカ村」の大地主だった、大塚伊三夫さんのインタビューも収録されています。
用賀アメリカ村はあまり映っていませんが、私がお弁当をよく買っていた「ジャンプ亭」の様子がわかります(6:40くらいから)。「湯河原の方へツーリングに行く」とインタビューに答えている男性の後ろにバッチリ「あつあつ弁当」という黄色地に赤文字の看板が映っています。懐かしい。懐かしすぎて涙、出ました。
その後に映っているお地蔵様も、私がいつも銭湯に行く時通っていた「旧環八」にあった祠。よく覚えています。
情報提供くださいました方に、心より感謝いたします。
↓動画はこちら
「風は世田谷」~第73回~用賀25時(昭和62年2月21日放送)
用賀駅から世田谷美術館に続く「いらかみち(用賀プロムナード)」の動画もありました。
↓動画はこちら
「風は世田谷」~第34回~私達のプロムナード(昭和61年5月24日放送)
用賀アメリカ村の消滅
数年前に、用賀アメリカ村付近に行ったことがある。
かつての「イエスタディ」跡地は住宅展示場になり、ラブホテルにはマンションが建ち、最後まで残っていたデニーズもセブンイレブンに、3Mのビルはニトリになっていた。
「デニーズはニトリになった」
と勘違いしている人もかなり多いが、昔あの場所にあったレンガ色の「住友スリーエム株式会社(通称3M)」の本社ビルが2013年に品川に移転して、その跡地にできたのがニトリである。
個人的に一番、思い出深いのがこの「3M」のレンガ色の建物だ。毎朝、ビルの前にある横断歩道を渡って、3Mの駐車場を中を通り抜けて(駅への近道なのだ)、用賀駅に向かっていた。社会人1年生の頃で、内心「会社、行きたくないなあ」と思いながらも、イヤイヤ出社していたあの頃が、レンガ色のビルとともに、記憶に刻まれている。
逆に、いまだに残っている木曽路やマクドナルドが驚きである。
マクドナルドの用賀インター店は、80年代当時、
「これからゴルフに行くお父さんたちの待ち合わせ場所」
としてもおなじみだった。
東名高速で静岡方面のゴルフ場へ行く人が、いったん集まるのがマクドナルド用賀インター店で、土曜日の早朝などに近くを歩いていると、ゴルフバッグを抱えたお父さん達が、マクドナルドの前で仲間に拾ってもらうためにたたずんでいる光景を何度も目にしたものだ。
その需要は、今もあるのかもしれない(ないのか?)
私に言えることは、あれぞ「バブリー」な光景だったのだな、ということ。
中国の上海は、経済発展にともなって風景を激変させた。上海に比べたらスケールはずっと小さいけど、用賀アメリカ村もバブル経済華やかなりし頃に突如として生まれた世田谷区の一画の「バブルの象徴」みたいなものだったのだ。
言い方が悪いかもしれないが、「時代に咲いたあだ花」ゆえに、バブル崩壊とともに消滅してしまったのだろう。
人々が、
「本当の高級レストランて何か?」
に気づいたことにより、「高級ファミレス」では通用しなくなったとも言える。
「若者の車離れ」という現象も拍車をかけた。
少なくとも令和の若者は、車を所有して、助手席に彼女を乗せて、アーリーアメリカンスタイルのレストランに行こう、なんて思わないらしい。
そういえば当時、土曜の夜中に急に女友達から電話がかかってきて、
「男友達とドライブしてるんだけど、今あんたんちの近くにいるの。いっしょに行かない?」
と誘われた。
OKしてマクドナルドの前で待ち合わせると、やって来た車はソアラ(トヨタが1981年に発売した高級クーペ)だった。ちなみに私の友達は、その時、現役女子短大生。
ソアラのせまい後部座席に乗車し、車が走り出してしばらくしてから、運転している男性にそれとなく、どこの大学かたずねると、
「あ、俺?東京医科歯科大学っす」
て言ってたけど、あれ、本当だったのかな?
まあでも、バブル全盛期だった当時の大学生は親から仕送りもたっぷりもらって、ソアラ転がして、短大生と合コンして、土曜の夜はその友人も誘ってドライブってことですよ、オッケーバブリー(by平野ノラ)。
昭和も遠くなりにけり。
用賀も遠くなりにけり。
実は私、用賀から引っ越したあと何年も住んでいる今の街が・・・あまり好きではない。夫の実家が近いというだけで、その意向に合わせて住んできたけど、どうがんばっても、この街が好きになれないんです。
私の本音は、もう一度、世田谷区民になりたい、てことでした。
もっというと、「引き寄せの法則」や風水、六占星術、運命数に開運術に手帳術まで・・・あらゆる方法を駆使して、用賀に戻ろうとしている。
追記 ユーミンお気に入り洋菓子店
2023年12月1日放送の「ザワつく! 金曜日」に松任谷由実さんが出演。
番組終盤で「環八アメリカ村」の話題が出た時に「オーボンビュータン」というキーワードが!
「オーボンビュータン」は世田谷区尾山台にあるフランス菓子とフランス惣菜のお店です。日本のフランス菓子の第一人者、河田勝彦さんが1981年に開いたお店で、現在はフランス修行から帰ってきた息子さんたちとともに、お店を営んでおられるそうです。
お店の名前はフランス語で「思い出の時」という意味。
2016年に放送されたユーミンのラジオ番組「Yuming Chord」のアーカイブで、ユーミンが「お気に入りのお店」と紹介されています。
▼アーカーブはこちら
松任谷由実|Yuming Chord 2016/01/15 O.A【Onair Digest】
厳密に言うと「環八アメリカ村」からはちょっと離れているけど、環八アメリカ村の話で盛り上がった時に言及されていたので、追記しておきます。ちなみに、「オーボンビュータン」は現在も営業されおり、尾山台本店の他「日本橋髙島屋店」もあります。