明治の文豪・夏目漱石の「坊っちゃん」のあらすじと読書感想文です。
合わせて、AIを使って「作者が言いたかったこと」に関する考察も5つ、提案しています。
なお「坊っちゃん」は著作権が消滅した作品のため、著作権消滅作品を電子書籍で公開・提供している「青空文庫」で無料で読めます。

坊っちゃん
英訳バージョンもあります。

Botchan (English Edition)
夏目漱石は明治時代に、書き言葉と話し言葉を一致させ、わかりやすい言葉にしようとする文学運動「言文一致(げんぶんいっち)運動」において、重要な役割を果たした人と言われています。
あれから100年以上・・・・・。
わかりやすく、話し言葉を使って書かれたはずの「坊っちゃん」も、令和の今は「100年前の言葉」に。
昭和生まれの私は、祖父母なども明治生まれだったので、なんとなく明治時代の言い回しも理解できるけど、今の若者にはさすがに「坊っちゃん」の中の言葉は古い、難解、理解不能なのでは?と思った。
そこで「坊っちゃん」を、令和時代のわかりやすい言葉に訳した「現代語訳」も、このブログで少しずつ(現在進行系で作業中なので・・・)公開中です。
▼わかりやすい言葉の現代語訳「坊っちゃん」はこちらから
夏目漱石『坊っちゃん』現代語訳 第一章
夏目漱石『坊っちゃん』のあらすじ
「親譲(おやゆず)りの無鉄砲(むてっぽう)で小供(こども)の時から損ばかりしている」の書き出しで始まる物語。
無鉄砲な「おれ」は、母、父と相次いで死に別れ、兄からも疎まれる。ただ一人「おれ」を慕って、世話を焼いてくれるのが「清」というばあさんの下女だ。
物理学校を出た「おれ」は、無鉄砲に四国の中学校への赴任を即決してしまい、停車場で清と涙の別れをする。
四国の中学校では「おれ」は教師たちに次々とあだ名をつける。教頭は「赤シャツ」、芸人風の画学の教師は赤シャツの太鼓持ちみいだから「野だいこ」、うらなりの茄子のようにたいへん顔色が悪い英語の教師は「うらなり」、たくましい毬栗坊主で叡山の悪僧と云うべき面構(つらがまえ)の数学の教師は「山嵐」。
やがて噂で「おれ」は、赤シャツがうらなり君の婚約者を奪ったと知って、不快に思う。さらにうらなり君は、赤シャツの陰謀で遠い所へ転勤になると知って、なんてひどいやつだ、いつか赤シャツを懲らしめてやりたいと思うようになる。最初は仲の悪かった山嵐も、赤シャツのことはいつか退治したいと同意して、二人は意気投合する。
その後「おれ」と山嵐は「祝勝会の余興」の会場で、生徒と他校生が大乱闘する喧嘩を止めに入ったはずが巻き込まれ、新聞沙汰になる。二人の教師が生徒をけしかけたと書いてある新聞記事。校長と赤シャツは「おれ」と山嵐から事情を聞いて、新聞に訂正記事を出すよう抗議すると言うが、出たのは小さい活字の取消記事のみだった。その裏で山嵐は「おれ」に、全てが赤シャツの陰謀で、わざとこうなるように仕組んだに違いないと言う。
結局、山嵐は校長から「辞表を出せ」と迫られ、学校を辞めることになる。「おれ」は校長になぜ山嵐だけが辞めねばならぬと抗議するが、丸め込まれてしまう。
学校を退職した山嵐は町を出たと思わせておいて人知れず引き返し、町の宿の二階に隠れる。障子に穴を開けてのぞき、そこから見える宿屋兼料理屋の「角屋」に、赤シャツが芸者と二人で現れるのを待った。赤シャツへ「天誅」を加えるためである。「おれ」も見張りに参加したが、七日たっても赤シャツは現れない。
八日目、ついに芸者二人と赤シャツ、野だいこが角屋へ入ったのを確認した。「おれ」と山嵐は、赤シャツと野だいこが「角屋」を出てくるのを朝の五時まで待った。町はずれまで赤シャツと野だいこを追いかけた「おれ」と山嵐は、生卵を投げつけ、ゲンコツをぽかぽかくらわし、天誅を加える。
「警察へ訴えたければ、勝手に訴えろ」と言って「おれ」と山嵐は宿で巡査が来るのを待ったが、巡査は来なかった。「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は笑い、 「おれ」はすぐに郵便で校長宛に「辞表」を出して、四国をあとにする。
東京に戻った「おれ」は街鉄の技手になり、清を呼び寄せ、二人で暮らす。
清はしばらくして肺炎で亡くなってしまう。
「おれ」は、
「後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい」
という清の願いを叶えてやる。
「坊っちゃん」で作者が言いたかったこと(AI回答)
「坊っちゃん」で作者が言いたかったことは何なのか、考えてみた。
しかし答えが出ないので、AI(Google AI Studio)に質問してみたところ、なるほどなという回答が返ってきた。
以下、その回答を私なりにまとめてみた。
1. 正義感と純粋さの称賛
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」と語る主人公は、非常に短気で直情的だが、同時に嘘や不正を憎む強い正義感の持ち主だ。
この物語は、彼の目を通して、ずる賢い教頭「赤シャツ」やその取り巻きである「野だいこ」といった、世の中の不正や偽善を痛烈に批判している。
漱石は、坊っちゃんの純粋でまっすぐな気性を、たとえそれが社会でうまく立ち回れない不器用さにつながるとしても、肯定的に描いている。
2. 社会や組織への風刺と批判
坊っちゃんが赴任した松山の中学校は、事なかれ主義や権威主義がはびこる、近代化する明治日本の縮図として描かれている。
教師たちの間の陰湿ないがみ合いや、体面ばかりを気にする学校側の対応は、漱石が自身の教師経験をもとに描いたものであり、当時の教育現場や官僚的な社会組織への痛烈な風刺となっている。
3. 「勧善懲悪」の複雑な結末
物語の終盤、坊っちゃんと同僚の「山嵐」は、赤シャツと野だいこを懲らしめる。一見すると正義が悪を討つ勧善懲悪の物語に見えるが、結果的に坊っちゃんと山嵐は学校を去ることになり、赤シャツたちはその地位に留まる。
これは、現実社会では必ずしも正義が勝利するわけではないという、漱石の冷静な視点を反映しており、物語に深みを与えている。正義を貫くことの代償や、その後の人生の哀愁も描かれている。
4. 無償の愛と人間信頼
周囲と衝突ばかりする坊っちゃんを、唯一無条件に認め、愛情を注いでくれるのが下女の「清」。坊っちゃんが松山で孤立を深める中で、清の存在は彼の心の支えであり、人間への信頼を失わせない重要な役割を担っている。
漱石は、社会の様々な価値観が変化する中でも、清が象徴するような無償の愛情は不変の価値を持つものとして描きたかったのかもしれない。
5. 個人の成長と葛藤
『坊っちゃん』は、若い主人公が社会の現実に直面し、理想と現実の狭間で葛藤しながら自分らしい生き方を模索する成長物語としても読むことがでる。周囲に流されず、自分の信念を貫こうとする坊っちゃんの姿は、時代を超えて多くの読者の共感を呼んでいる。
これらの要素が複合的に絡み合うことで、『坊っちゃん』は単なる痛快な物語にとどまらず、読む人や時代によって様々な解釈を可能にする、奥深い文学作品となっている。
以上【Google AI Studio】より
これらをまとめると、正義感や悪を懲らしめることが、必ずしも上手くいくわけではないということを「坊っちゃん」は現している。
「現実社会では必ずしも正義が勝利するわけではない」が最も端的にそれを言い表す言葉だと思う。
いつの時代も汚い奴や許せない奴はいるが、真っ向からそれらに戦いを挑むと、その代償も大きくなる。
自分の信念を貫こうとすると、失うものもある。
信念を曲げて、世の矛盾や不条理を受け入れて生きていくのがいいのか、それとも失うものがあっても、信念を貫くほうがいいのかを問う作品といえる。
また、今風に言うと「おれ」はコミュ障じゃないか?
合う人、合う人に反抗的。周りの誰とも親しくなれない。唯一理解しあえたのが「山嵐」だが、その関係も二人して四国を出るところで終わっている。
最後の「清」まで世を去ってしまい、「おれ」のその後が心配だ。正しいことを貫く姿勢は悪いとは思わないが、暴力で解決するようでは先が思いやられる。
今風に考えると、山嵐とどこかで再開して、二人でオリジナリティあふれる教育システムの学習塾でもやったら、それなりに人気が出そうな気もするが、この時代まだ、そんな前衛的な学習塾もありえないだろう。
実は「坊っちゃん」とは、そういう「人付き合いが苦手」な青年の物語だったのだろうか、と思ったら、長年「痛快活劇」と誤解していた自分に気づいた。
大人になって(50代になって)、親目線で「坊っちゃん」を読むと、世の中を上手く渡っていけない青年の失敗談に見えてきて、これまでの見方と大きく違ってきた。
「坊っちゃん」の読書感想文
いつの時代も「正しいこと」を言った人は、損をするのだなと思った。
許せない人がいても、我慢して見過ごしたほうがいいのか。
悪いことをしている人がいても、見て見ぬふりしたほうがいいか。
いや、実際私も、これまでの人生ではほぼ、そうしてきたことのほうが多い。世の中の不正や矛盾、許せないなと思うこと、それら全てに、
「関わると面倒だから、知らなかったことにしよ」
と目をつぶって生きてきたことに「坊っちゃん」は気づかせてくれる。
そうか、間違っていることは、間違っていると、ダメなものには、ダメじゃないかと、大きな声で言わなくてはいけないんだ・・・・と、一瞬は思うのだが、自分には無理だと思う。
赤シャツと野だいこを懲らしめる坊っちゃんと山嵐の勇気と正義は痛快だ。
だが多くの人は、坊っちゃんのように職を投げうってまでも、不正を正す勇気はない。
現代の現実社会でも「森友学園問題」や、「兵庫県知事の内部告発文書めぐる問題」などにおいて、告発した側の人が亡くなっている。
不正を正すか、見過ごすかは、究極的に生きるか死ぬかの問題にまで発展する恐ろしさがある。
「ぼっちゃん」という作品が長く愛されている理由が、そこにあるのだろう。
いつも時代も、誰にも、
「あいつだけは、許さない・・・」
と思う相手がいるはずだ。
だが、ほとんどの人は、許さないと心の中で思うことはできても、それを実行に移すことはできない。
「坊っちゃんのように、生きることができたらなあ」
と思いながらも、できな自分に坊っちゃんは、優しく「それでいいんだよ。普通はそうなんだよ」と微笑みかけてくれている気がする。
それにしても驚くべきは坊っちゃんの毒舌に次ぐ、毒舌である。
四国に着くなり野蛮なとこだの、田舎だの、暑いだの、やかましいだの・・・・まあ、よくもこれだけ四六時中悪態がつけるものだと感心する。親譲りの無鉄砲というより、神経質、短気、我儘、文句言い。朝から晩まで、ずっと毒舌をはいている。
四国松山は坊っちゃんの舞台とか、坊っちゃんの聖地とか自ら名乗っているが、本当に「坊っちゃん」をちゃんと読んでいるんだろうか。悪口しか書いてなくて、今なら大炎上するような内容だ。
野蛮で、田舎で、つまらん所。宴会に出た料理を見た坊っちゃんは「汁を飲んでみたがまずいもんだ」と言い、蒲鉾は「どす黒くて竹輪の出来損ない」と言い、刺し身も切り方が厚いと文句を言い、「大方江戸前の料理を食った事がないんだろう」と結論づける。
最後には「おれと山嵐はこの不浄な地を離れた」とまで言いのける。「不浄な地」って。
抗議をしようにも、夏目漱石はとっくに他界しているし、「坊っちゃん」は明治の文豪が書いた名作小説ということになっているから、目くじらを立てるのは大人げない・・・ということなのか。
私は中学生くらいの時に読んで以来、ウン十年ぶりに読み返してみたが、あまりのブラックユーモアというか、毒舌のオンパレードに驚いている。今になって冷静に読めば、この小説がいかに悪態と、批判と、卑下に満ちているかがわかる。
数年前にNHKで、夏目漱石の妻の「鏡子」を主人公にしたドラマ『夏目漱石の妻』を観た。
ドラマの中の漱石は、驚くほど短気で、朝から晩まで鏡子に怒鳴り散らしており、鏡子はそれが元でノイローゼのようになり、川に飛び降りて自殺未遂までしている(実話)。
夏目漱石の「神経衰弱」は有名な話で、今でいうなら双極性障害とか、鬱のようなものなのだろうが、ああ四六時中怒鳴り散らしていたらそりゃあ胃弱だの、神経衰弱だの、肉体も蝕まれるだろう。
「坊っちゃん」の中の「おれ」は、悪を懲らしめて颯爽と「不浄な地」を去っていくが、現実では四六時中怒鳴り散らして、神経をすり減らして作家活動をしていた漱石自身は、病に倒れ、49年の短い生涯を終えている。
短気は損気。坊っちゃんのような怒りっぽい気性では、長生きはできないということを、作者自身が身を持って現した生涯となった気がした。